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保呂羽堂裸餅つき祭り in 神林

2006.11.05 撮影 STAFF fuji

「保呂羽堂」名の由来
「保呂羽」秋田県平鹿郡大森町の保呂羽山(483メートル)に鎮座する保呂羽山波宇志別神社に由来し、米沢藩重臣の色部氏(菩提寺が千眼寺)が分 霊してきたことによる。

天正18年(1590)に越後国上杉景勝は豊臣秀吉により検地の命を受けた、上杉家臣、色部長真(いろべながざね)は秋田の大森城 に留まり年貢徴収、治安維持を遂行した。色部氏は保呂羽山の神を深く信仰し、自分の領地越後国「平林城」(”鎌倉時代(1206年)に初代色部氏「為長」 入部〜慶長三年(1598年)迄約400年間十六代「色部光長」が”金山城主”為る迄支配して来た”)新潟県神林村に「保呂羽堂」を分霊した、其の後「上 杉氏」の米沢移動と共に色部氏は千眼寺、保呂羽堂も米沢(米沢市窪t田町)に移り現在に至る。

又 色部氏は戦いの折、道に迷った其処に「キジ」が現れ道案 内されて難を逃れたこの「キジ」は保呂羽山の神の使いで有ると言われてます、保呂羽堂に美しい「キジ」の絵馬が多いはこの由来による。

「裸餅つき」寛永 18年(1641)、田畑に病害虫が広がり被害が心配されましたが、神様のお告げにより保呂羽堂の縁の下の土を田畑に撒いたところ虫が逃げ作物が救われま した。村人は感謝の気持ちと豊作を願って餅を搗き保呂羽堂に供えたのが始まり以後毎年(12月4日)行なわれている。

餅つきは若者達が半裸姿で千本杵を持 ち7〜8人で臼を囲み、ねり唄、搗き唄、揚げ唄を唄いながら搗き揚げる勇壮な祭りです、搗きたての餅は参拝者に振舞われる。天上高く餅を突き上げ、天上の 煤が付いた餅ち程御利益が有ると言う。

以上の事から米沢の「色部氏」「保呂羽堂」との関わりは深く毎年12月4日には神林村からバスで訪問する交流が続い ている、この度は神林村関係者により米沢市窪田町、裸餅つき祭り保存会が招待され神林村役場前センタ−で開催された。
広いセンタ−の中は湯気があがり、威勢 の良い声が響き渡り次々と餅が搗きあがり、観客に配られました、子供達もお手伝いしていた。

夕方に平林城跡保存会会長、小野寅次氏から説明戴いた神林村の 千眼寺を尋ねた道路も整地された小高い地に隆々と建っていた、赤い山門をくぐりやや急な階段を登ると保呂羽堂が有る、かなり朽ちて来てるが歴史を感じる彫 り物が見られる。もと色部氏の居城この「平林城」は現在、「平林史跡の森」に指定され更に「国指定の史跡」であり近々整地される事で有る事を小野氏より長 い歴史と共に聞かせて戴いた。

前後したが色部長門氏についてもう一言、戊辰戦争の時、西軍に包囲された新潟町の民衆に戦火が及ぶを避け味方の損傷を少なく する為に身をもって守った奥羽越列藩同盟軍、新潟守備指揮者、米沢藩軍事総督でも有る事は多くの人が知る処で有る、慶応四年(1868)七月二十九日関屋 で銃弾を受け、ナス畑で自刃、享年四十四歳。

塩谷の野沢氏より米沢の歴史有る「裸餅つき」祭りがあるよと案内を戴いた事から興味を持ち撮影させて戴いた、 そして「保呂羽堂」「色部」のキ−ワードで多々調べると深い深い歴史が信仰が単なる「餅つき」で無い事が記載の様に見えて来る。米沢市役所広報による親切 詳細な案内頂き(訪問約束しながら風邪で寝込み悔しい思いを)した事や何度も小野氏宅にお邪魔し資料をお借りしました事によりこの文面が出来た事を深くお 礼申しあげます。   撮影者


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保呂羽堂裸餅つき祭り in 神林


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