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滝打たれ 白玉の滝

2009.01.09 撮影 STAFF fuji

 

白玉の瀧。起源について確たる文献は無いが、大同四年(約1200年前)弘法大師が菩提樹山(248M)に寺を建立している。この歴史から菩提樹山から流れる谷川の水は臍清水(伝説による)と合流して瀧に落ちる地形からこの年間で発見されたと推測出来る。
又、白玉の滝の語源は清い水が巨大な黒い岩肌先端から水玉が光に白く輝きながら落ちる様から名付けられた様、800年前頃には”白玉の瀧”と呼ばれてたと推測される。(雄滝落差15M、雌滝落差7M)の文献有り。
滝には延宝二年(約340年前)不動明王を祀り「滝不動明王」と唱えてたが「不動明王」が里に出たいとのお告げから滝には神仏不在となる。明治二年頃佐久那殿神社に瀬織津姫命、天照大神の荒御命が祀られてる幾多の水害、豪雪に見舞われたが現在に至る。

かっては山伏の修行の地でも有ったと言う。この滝の周辺には多くの歴史が有る事が会津区長目黒氏から伺って知る事が出来た。改めて戦国の世に思いを馳せる、越後は今「天地人」で脚光浴びている。
当時の絵図面より幾つかの茶店が有り人々の憩いの地で有った事が判る。トイレも設置され滝の水を大切にして来た事が判る。現在も建物の基礎が残され当時を偲ばれる。
白玉の滝の水源の菩提樹山(花立山、華報寺山とも言う)にも歴史が多い。
華報寺(日蓮宗)と言う寺が有ったが遺民一揆の時上杉方と村上、新発田両藩の兵士が三昼夜に渡り戦い破れ、焼け落ちた大激戦地で有る。
当時のもののふの叫びが聞こえる地です。
現、堀出神社の裏手に「金津城」が有った源義光の子「平賀盛義」が蒲原郡(現、田上町)の護摩堂山に築城した、其の後護摩堂城は落城により下山 し”金津小二郎資義”を名乗る。築城の際に壕を堀ってる時、二つの黄金の神体が堀起され更にこの跡から黒い水(石油)がこんこんと湧き出たと伝えられて る。堀出神社の由来と石油産業の発祥の地である。
鉄道の町、新津の繁栄をもたらした基がこの地に有る。

この由緒ある白玉の滝に水原町(現阿賀野市)の自己啓発グル-プ「人生塾、健魂」が今年の約40日間の寒篭り修行が村松の霊場で始るに先立ち初日 の本日、地域住民の理解を得て「白玉の滝」を使わせて戴いてるとの事。この活動を見て理解して貰う目的もあり一般公開している。又、一般参加も可能で毎年 会員と共に行衣姿で滝に打たれる。今年はやや暖冬と言えど水温は4〜5度(昨年は2〜3度でツララが有った。)然し滝の水が背中を伝い尻の辺迄流れて来る 時のあの冷たさは辛いですよ、打たれている時は只「イカノホリ」を唱え続けてます、無心で打たれて居る等は出来ませんよと後日青木会長は話された。今年は 一般、会員を含め23人が滝打たれに挑戦した。其の中で食品関係の社長と社員の参加が有ったとの事、一般的には社長は社員に人間形成に行って来いと送りだ すが、率先垂範である、社員と共にの会社で有ろう。各人の気合は様々です「エ〜イ!エ〜イ!」「ありがとう〜ありがとう〜」を何度も発しして顔を赤くして 一心に滝の音に気合は負けてませんでしたね。終わると身体がポカポカ、温かいよ。スッキリした。と等満足の顔で有った、一般参加者には証明書が渡された。

多忙の中に文献や話を聞かせて戴いた金津目黒区長様には厚くお礼申し上げます。   撮影者



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